美しすぎる覆輪目地:日本建築に息づく伝統美

覆輪目地(ふくりんめじ)という言葉、ちょっと聞き慣れないかもしれませんが、日本の建築では、独自の美しさを生み出す伝統的な技法のひとつです。
レンガやタイルの目地を少し盛り上げ、半円形(かまぼこ型)の柔らかな形に仕上げる覆輪目地は、主に建物の外壁に用いられる技法です。これにより、単調になりがちな壁面に立体感や陰影が生まれ、建物にさりげない芸術性が加わります。
さらに、日本では歴史的建造物や古建築で多く取り入れられてきたことから、この技法にはどこか懐かしさと伝統美が漂います。土蔵などに見られる江戸時代の伝統的な壁仕上げ「なまこ壁」に近い形状から、覆輪目地はその意匠を参考に発展したともいわれています。
また覆輪目地は、装飾効果が高いだけでなく、レンガをしっかりと接着して風雨に耐える力を強める役割も果たしています。特に、湿気の多い日本の気候では、建物の寿命を延ばすために大きく貢献しています。
しかしながら、この技術は職人技が求められ、熟練の職人さんたちの手によって仕上げられるため、近代ではほとんど見ることが出来ません。貴重な建築技法のひとつとも言えるでしょう。

覆輪目地って、実際に見ることは出来ますか?

はい、東京駅が有名です。
10年ほど前にTV番組「ブラタモリ」の東京駅特集で、タモリさんが覆輪目地を紹介されましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません
東京駅丸ノ内駅舎で見る復元プロジェクト

東京駅の丸ノ内側の出口(北口・中央口・南口)のいずれかを外に出ますと、威風堂々とした駅舎の佇まいと、外壁一面を覆っている赤レンガと覆輪目地を見ることが出来ます。駅構内の一部(東京ステーションギャラリーなど)でも当時のレンガの壁を確認出来ます。
1階から2階の部分が創建当時の覆輪目地(一部補修箇所を除く)。3階部分は復元された覆輪目地です。


それでは東京駅の歴史を振り返りながら覆輪目地のご紹介を。
1914年(大正3年)、辰野金吾氏の設計によって、西洋建築様式を取り入れた3階建て赤レンガ造りの東京駅丸の内駅舎が完成しました。
使用された構造用のレンガは、日本で初めて本格的なレンガ製造を行った「日本煉瓦製造株式会社」の製品で、同社の創業者のひとりである渋沢栄一氏の地元、埼玉県深谷市の工場で製造されたもの。東京駅の重厚な赤レンガには、こうした歴史と地域の物語が静かに息づいているのですね。
余談ですが、新しく発行された渋沢栄一の1万円札の裏面には、東京駅丸ノ内駅舎北口ドームがデザインされています。私も先日まで気がつきませんでした。

今ではレンガを「張る」イメージもありますが、当時はレンガを「積む」作業。約833万個の構造用レンガが「下駄歯積み(げたばづみ・強度を確保するため、長手と小口を交互に積み、意匠性も兼ね備えた特殊な工法)」されました。
そして、更に下駄歯積みでデコボコになった表面には、厚みの違う15mm(五分)と45mm(一寸五分)の化粧レンガが小口積みにて仕上げられています。なんとも複雑な二重構造ですね。
こちらの化粧レンガは「品川白煉瓦株式会社」の製造。その数、約93万個。
※レンガの数は東京ステーションギャラリーより
そして、それらのレンガとレンガの間の目地部分が、覆輪目地で仕上げられています。



日本では明治期以降、西洋建築の導入とともにレンガ造りの建物が急増しました。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災では、多くのレンガ建築が甚大な被害を受け、崩壊してしまいます。
ところが東京駅丸の内駅舎は、上部のドームや内装こそ損傷したものの、外装や躯体は大きく崩れることなく耐え抜きました。
主な要因は下駄歯積みにより、壁の厚みを確保していたことと、鉄骨による補強。レンガの重さや建物の荷重を鉄骨の柱や梁で支えることにより、耐震性が保たれていたのですね。当時の日本としては、近代建築の先端技術が採用されていました。
当時の技術者たちの確かな設計力と施工品質が、建物を災害から守り抜いたと言えるでしょう。
ところが。。。
1945年(昭和20年)3月10日、B-29爆撃機279機による大規模な空襲が東京を襲いました。続く5月25日の空襲では、東京駅丸の内駅舎も甚大な被害を受け、ドームや屋根は焼け落ち、3階部分のほとんどが焼失し、見るも無残な状況に変わり果ててしまいます。
戦後は資材不足や財政難が重なったことから、3階部分の復元が見送られ、駅舎は長らく2階建ての姿のまま利用されることになりました。

時は過ぎ2003年(平成15年)、重要文化財に指定されたことを機に、本格的な修復保存計画が動き出します。創建当時のオリジナルの姿に戻すというもの。
2007年(平成19年)に着工され、5年の歳月をかけ2012年(平成24年)10月に完成。開業100周年(実際には2014年)に合わせて一般公開されました。
それでは3階部分と南北ドームが忠実に再現された、現在の東京駅丸ノ内駅舎を散策しましょう。
今回の復元プロジェクトでは、当時の設計図や写真資料を丹念に読み解きながら、失われていた3階部分が当時の姿のまま甦りました。


東京駅丸の内駅舎の復元工事では、3階部分(および1〜2階既存部の補修を含む)に用いられるレンガは、創建当時のように積み上げる工法ではなく、新たに増設された鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)のモルタル下地に、化粧レンガを「張り付ける」方式が採用されました。
この化粧レンガは、創建時と同じ15mm厚のものが復元され、株式会社LIXILと株式会社アカイタイルが共同で製造したものです。使用された枚数は約50万枚。


関係者のたゆまぬ努力により、創建当時の品格ある外観意匠を忠実に守りながら、現代建築に求められる耐久性や安全性も兼ね備えた新生東京駅丸ノ内駅舎です。

そして仕上げには、当時の意匠を象徴する覆輪目地が忠実に再現されています。
覆輪目地の形状や陰影、質感を復元するには高度な技術が求められますが、今回の復元プロジェクトでは、その再現のために職人の方々が特別な技術を新たに習得されたとのお話を、関係各所の情報で拝見しました。
覆輪目地は、ただ目地を盛り上げるだけではなく、目地の表面を美しく均一に仕上げるため、専用の鏝(こて)が必要です。こちらの鏝も特注で作らせたそうです。




目地の幅は、縦目地が9mm(三分)、横目地が7.6mm(二分五厘)と異なっていたのですね。
そして縦目地と横目地が交差する部分を「蟇股(かえるまた)」といいます。「蟇」はヒキガエルのヒキですね。蟇股は建築用語として、神社などの梁の構造材や鉄骨の金具などに使われていますが、覆輪目地にも使われていました。

確かに目地が交差する部分が、カエルちゃんの小股に似ている?
それよりこの形状に仕上げるのが、とても難しそうです。

誰かと一緒に覆輪目地を見たときは、「ここは蟇股っていうんだぜ!」と、ドヤ顔で教えてあげましょう。
こうした丁寧な手仕事の積み重ねによって、東京駅丸の内駅舎は創建時の気品を取り戻し、現在の姿へと蘇ったのですね。

ぜひ都内へお出かけの際は、東京駅見学にお立ち寄りください。そしてレンガと覆輪目地をジックリと観察してみてください。
あ、壁に向かってブツブツ言ってる私のように、決して不審者と間違われないように注意です!
まだまだあった!覆輪目地が全国に!
東京駅丸の内駅舎の他にも、日本全国には覆輪目地を施した歴史的建物が残っています。
それでは主な建物を年代順にご紹介いたします。
京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)
明治39年(1906年)重要文化財
外壁見学可 無料
設計は辰野金吾氏とその弟子、長野宇平治氏。東京駅丸ノ内駅舎より8年前に、早くも覆輪目地を採用しています。
建物は赤レンガと花崗岩の「辰野式」と言われるデザインで、のちの建物にも踏襲されます。
1965年(昭和40年)まで日本銀行京都支店として使用されたのち、現在は京都文化博物館として利用されています。
KN日本大通ビル(旧三井物産横浜ビル)
明治44年(1911年)
外壁見学可 無料
設計は鉄筋コンクリート技術の先駆者、遠藤於莵(えんどうおと)氏と酒井祐之助氏。日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルとして有名です。隣には前の年に完成した倉庫がありましたが、残念ながら平成26年(2014年)に解体されてしまいました。
こちらの外装はレンガではなく小口タイルです。目地が覆輪目地になっています。タイルでの使用例としては最初なのでは?
万世橋駅舎(初代)1912階段
明治45年(1912年)
見学可 無料
こちらも辰野金吾氏設計の赤レンガ造り。大正12年(1923年)の関東大震災で焼失するまで11年間、機能していた駅舎ですが、開業当時に作られた階段は現存しております。
鉄道博物館(後の交通博物館)の時代には、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として利用されましたが、その後閉鎖。
平成25年(2013年)、「マーチエキュート神田万世橋」が開業され、実に70年ぶりに「1912階段」として一般公開されました。階段はレンガではなく、タイルの壁に覆輪目地が確認できます。
万世橋交番(須田町派出所)
明治45年(1912年)頃
見学可 有料
その万世橋駅の脇に設置されていた交番です。こちらもレンガではなくタイルの外装。万世橋駅が関東大震災で焼失したあと、2代目駅舎が仮駅舎で復興したことと、こちらにも覆輪目地が施工されていることから、辰野金吾氏の時代の交番だったと考えられます。
数回の移設を経て、用途も休憩所になっていましたが、長い間使用されていなかったようです。
平成5年(1993年)には、江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移設されました。こちらで現在も見ることが出来ます。
旧久米家住宅洋館
大正元年(1912年)頃
見学可 無料
渋谷区代々木上原にあった、工学博士にして政治家の久米民之助氏の洋館住宅。のちに紀州徳川家の迎賓館として機能しました。戦後はGHQに接収されましたが、最終的に岩佐多聞と言う方の所有となりました。
いよいよ令和2年(2020年)に解体が決まった際、久米民之助氏が名誉市民でもある出身地の群馬県沼田市が洋館を取得・移築を決定。クラウドファンディング型ふるさと納税などで支援を集め、令和5年(2023年)に「大正ロマンエリア」と銘打つ中心市街地の新たな建造物として移設されました。
移設と言っても復元に近いものだったらしく、外装タイルと覆輪目地はあらたに製造・施工されております。東京駅丸の内駅舎同様、現代の職人さんが施工した新しい覆輪目地も見てみたいですね!
また公式には設計者が不詳とのことですが、移築時の調査によりますと、片山東熊氏または木子幸三郎氏ではなかったかと。事実だったら驚きです!
旧第一ポンプ所
大正3年(1914年)名古屋市指定有形文化財 景観重要建造物
見学可 予約またはイベント時
名古屋市千種区の鍋屋上野浄水場内で、実に創業時から約80年間使われていたポンプ所です。いやいや、こちらホントにポンプ所ですか?赤レンガ造りと石の装飾がなんとも豪華な佇まい。イギリスで流行したクイーン・アン様式とバロック様式の折衷だとか。設計は名古屋市水道部(丹羽重光氏)。
平成26年(2014年)には、改修・耐震工事が行われています。内外装ともにキレイになりましたが、第二次大戦中の空襲による砲弾の跡が、レンガにそのまま残されています。貴重な歴史的資料にもなっているのですね。
こちらは外壁のレンガ、内装腰壁の小口タイル共に覆輪目地になっています。
大阪市中央公会堂
大正7年(1918年)重要文化財
見学可 無料
デザインは、コンペで一等を獲得した岡田信一郎氏。その原案に基づき、実際の設計を指揮したのは、4年前に東京駅丸ノ内駅舎を完成させた辰野金吾氏と地元大阪の片岡安氏でした。
こちらの外装仕上げも赤レンガと覆輪目地。もはや覆輪目地の辰野金吾ですね!
途中、再開発による建て替えの計画が持ち上がりましたが、市民レベルでの保存運動が高まり、平成14年(2002年)には大規模な保存・再生工事の末、リニューアルされました。その際、化粧レンガや覆輪目地も補修されております。
旧日若酒造
大正7年(1918年)
見学不可
こちらは福岡県直方市(のおがたし)にあった造り酒屋さん。今回、覆輪目地を調べていたら発見しました。九州にもあった!
敷地を囲む瓦塀の腰壁がレンガ積みになっていて、なんと覆輪目地です。
しかしながら、施工年月の確認の際、直方市役所にお尋ねしたところ、こちらの塀はすでに解体されてしまったとのこと。なんとも残念!
旧豊田佐助邸
大正12年(1923年)以前(大正5年説もあり)
認定地域建造物資産
見学可 無料
発明王にしてトヨタグループの創始者、豊田佐吉氏の実弟で、すぐれた経営手腕で兄を支えた豊田佐助氏の名古屋市東区にある自宅です。木造2階建ての洋館は、外壁が白い小口タイルの総タイル張りで、目地が覆輪目地になっています。
名古屋の近代建築研究の学術論文や調査報告によると、設計者は当時名古屋で活躍していた建築家、伊藤代吉氏とのことです。
また、洋館は豊田佐吉氏の娘婿であり、後のトヨタ自動車初代社長となる豊田利三郎氏の邸宅として大正5年(1916年)頃に建設されたという説が有力のようです。
そして大正12年(1923年)に豊田利三郎氏の転居にともない、豊田佐助氏が譲り受けたとか。
大正5年(1916年)の竣工なら、東京駅丸ノ内駅舎と同時期ということになります。
覆輪目地の職人技:現代における再評価
このようにまだまだ各地で見ることが出来る覆輪目地。
明治から大正にかけて、機能と意匠性を兼ね備えた、高度な技術が存在していました。もし機会があれば、覆輪目地が施された建物を実際に訪れてみてはいかがでしょう。そこには、現代ではなかなか味わえない、職人さんたちの思いと伝統の美が詰まっています。ぜひ、プロの技をご堪能下さい。
Instagramで「#覆輪目地」を検索すると、全国各地で覆輪目地調査隊のスペシャルエージェントの皆さんが、画像を投稿しています。あんなところにも、こんなところにも。覆輪目地は今か今かと我々の発見を待っています。
お時間がありましたら、調査隊の一員として、お住まいや職場の近くを探索してみましょう。もし古いレンガやタイルの壁を見つけたら、目地の形状の確認を。ひょっとしたら覆輪目地かもしれません!
全国には人知れずオーラを放っている覆輪目地が、必ず存在しています。見つけたら私にも教えてくださいね。
私も上記した建築物の覆輪目地を、全部実際に見たわけではありませんので、近々覆輪目地の旅を敢行したいと思っています。その際にはまた細かくご紹介できると思います。画像なども、またこちらの記事に添付して更新したいと思います。
ここ数年、北海道のタイル職人さんと協働で、とあるプロジェクトを遂行している関係で、春先から半年ほど札幌に滞在しています。
ある日、そこでお世話になっている親方と覆輪目地の話題になり
「昔よくやったなぁ〜」と倉庫の奥から引っ張り出してきた目地鏝が沢山入った木箱。
その中から出てきました!覆輪目地用の鏝です。

今となっては貴重なビンテージゴテ!

私も幼少の頃に、自宅倉庫で見た記憶があります。数年前にタイル左官業を廃業した親戚の倉庫にも覆輪目地用の鏝が役割を終え、錆に覆われていました。
繰り返しになりますが、覆輪目地は、職人技が光る技法です。
目地を均一に盛り上げるためには、高度な技術と経験が必要で、職人さんたちは丁寧に手作業で仕上げていきます。
しかし現代では、建築技術や資材の進化によって、覆輪目地のような手のかかる技法はコストや手間がかかりすぎるため、ほとんど使われなくなってしまっています。
ですが、私は現在、このような職人技が再評価されつつあり、覆輪目地もその価値が見直されている気がしてなりません。
覆輪目地を未来へ:保存と継承の取り組み
上記ご紹介のように、伝統建築を守るための復元プロジェクトは増えており、その中で当時の覆輪目地を再現する試みが多くなっています。
覆輪目地の技術を次世代に伝えていくためには、技術の保存と継承が欠かせません。東京駅丸ノ内駅舎や旧久米家住宅洋館のような歴史的な建物では、修復作業を通じて職人技が甦っております。次世代に引き継ぐ良きチャンスかと思います。
さらに、覆輪目地の技法を記録し、後世に伝えるためのドキュメント化やワークショップも行われるようになれば、伝統的な工法を学びたいと考える職人さんも増えるのでないでしょうか。
とはいえ、バブル崩壊以降の建設業界は依然として厳しい状況が続き、課題も山積しています。
それでもなお、次の世代が誇りとやりがいを持って活躍できる魅力ある産業へと、建設業が再び歩み出していくことを願っています。
最後に:覆輪目地が伝える日本の建築美
覆輪目地は、日本の建築美の奥深さを静かに物語る、きわめて魅力的な伝統技法です。一見すると素朴でシンプルな仕上げのように見えますが、実際には細部への気配りと、長年の経験に裏づけられた職人の感覚が詰め込まれています。一本一本の目地を丁寧に盛り上げ、かまぼこ型のやわらかな曲線をつくり出す工程には、決して機械では再現できない“手の記憶”が宿ります。
歴史的建築物を訪れると、この覆輪目地が壁面に深い陰影とリズムを与え、建物全体に気品ある佇まいを添えていることに気づかされます。たとえ時を経ても美しさを保ち続けるのは、技法そのものの優雅さだけでなく、当時の職人が建物の未来を思いながら一つずつ積み重ねていった手仕事の積層があるからこそでしょう。
こうした技術に触れるたび、日本の建築文化がいかに豊かで、歴史や風土と深く結びついているかを再認識させられます。同時に、現代の私たちが大切に守り継ぎ、次の世代へ手渡していくべき価値が確かにここにあるのだと感じます。
これからも覆輪目地をはじめとする日本の伝統技術が、建築文化の財産として受け継がれ、美しい意匠とともに未来へ静かに息づいていくことを心から願っています。
— アントニ・ガウディ
「諸君、明日はもっといいものを作ろう」


