日本近代タイル史に刻まれた、静かなモザイキスト
日本のタイル・モザイク史を語る上で、静かに、しかし確かな足跡を残した人物がいます。
きわめて重要でありながら、長く一般には知られてこなかった
モザイク作家板谷梅樹(いたやうめき)です。

その理由は、
という点にあると思います。
さらに私は、
「おそらく、日本で最初に本格的なモザイク壁画を制作した人ではないか」
と考えています。
その仕事ぶりを知れば知るほど、日本のタイル・モザイク史のなかで、もっと前面に出て語られていいモザイク作家だと痛感するのです。
今回は板谷梅樹氏をご紹介させていただきます。
2024年4月に茨城県筑西市の板谷波山記念館において、特別展「昭和モダーン、モザイクのいろどり 板谷梅樹の世界」が開催されました。
続いて、六本木の泉屋博古館東京でも8月に巡回され、板谷梅樹氏の逸品を一堂に集めた本格的な回顧展として、ネットニュースやテレビでも取り上げられ、大きな話題になりました。
私は当時札幌にいた関係で、どちらの会場にも足を運ぶことが出来ず、一生の不覚と悔やんでいた日々。実際に訪れた方々に感想などをうかがって、行った気になっておりました。
ところがなんと今年の4月から、少し小規模にはなりましたが、INAXライブミュージアム「土・どろんこ館」で3ヵ所目の巡回展が!
勇んで愛知県常滑市に向かい、板谷梅樹作品と無事対面を果たしてまいりました。LIXILさん、本当にありがとうございます。

陶芸家の父が捨てた陶片から生まれた、色彩への感性
それでは板谷梅樹氏の経歴をなぞってみましょう。
板谷梅樹氏(以下梅樹氏)は明治40年(1907)、東京・田端にお生まれになっております。美術に造詣が深い方は、板谷と聞いて思い浮かべるのは……。
はい、お父さまは近代陶芸の巨匠として名高い板谷波山氏(1872–1963)。陶芸家として初めて文化勲章を受章。人間国宝にもノミネートされた方。
お子様は五男一女いらっしゃいまして、梅樹氏は末っ子でした。
子どもの頃から、父が粘土をこねる様子、ロクロを回す姿、窯出しの瞬間……。
常に陶芸が生活の背景にあり、幼少期から自然に粘土に触れる環境が整っていたと想像出来ます。
波山氏は、完璧主義者として知られています。少しでも気に入らない作品は、躊躇なくハンマーで叩き割り、その「焼き損じ」の陶片を庭に捨ててしまうとか。
梅樹少年は、そのカラフルな破片を拾い集めて、遊んでいたと伝わります。

タイル職人の子供がタイルをオモチャにして育つように(私です)、砕かれた陶片を並べて遊び、無意識のうちに、その色と形がばらばらになった陶片から、自然と色彩感覚や構成力など「モザイク的なものの見方」を身につけていったのでしょう。
まさに、モザイキストになるための土壌が、幼少期から整っていた、と言ってもよさそうです。
興味深いのが、波山氏の子供たちのなかで芸術家になったのは梅樹氏ただ一人だったこと。誰も父の陶芸そのものは継がず、梅樹氏だけが、まったく別の表現領域として「モザイク」の道に進んだのですね。
ですが、最初からモザイクまっしぐらだったわけではないようです。
梅樹氏は明治大学に進学するも中退し、18歳という若さでブラジルへ渡航します。 農業への夢を抱いていたのでしょうか、現地ではドイツ人が経営する農場で働いています。
ブラジルの強烈な太陽と色彩、そして広大な風景との出会い。この体験が、後の梅樹作品に見られるエキゾチックな作風に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
滞在はわずか1年での帰国となりましたが、その時間はかけがえのないものだったはずです。
昭和2年(1927)、20歳になった梅樹氏は、ステンドグラスを学びはじめます。
入門先は、日本初の本格的ステンドグラス作家といわれる、小川三知氏のアトリエでした。
アメリカで修業し、かの「ティファニー方式」の技法を日本に持ち込んだ先駆者として知られる人物です。
実は、波山氏と小川氏は東京美術学校(現・東京藝大)の同級生であり、親友同士だったようです。
小川氏がアメリカから帰国した際、「創作活動に良い場所だから」と波山氏が田端へ呼び寄せ、以来、家族ぐるみで付き合う「ご近所さん」でもあったのですね。
梅樹氏は助手として研鑽を積みますが、翌昭和3年(1928)に小川氏は急逝。師事できた期間はわずか1年足らずという短いものでした。
しかし、ガラス片を組み合わせて光を描くステンドグラスの技法は、モザイクと驚くほど通じるものがあります。ピースの輪郭線の活かし方や、画面に生まれるリズム、そして光を意識した色彩感覚。
偉大な先駆者のそばで学び取ったこれらの要素は、梅樹氏の中で熟成され、やがて独自の陶片モザイク表現として花開くことになります。
この頃、ステンドグラスが2点程制作されています。その1点が今回の板谷梅樹展で展示されておりました。

その後、24歳で結婚。翌年にはお子様がお生まれになっています。
幻のデビュー作にして最高傑作「日劇モザイク壁画」
昭和8年(1933)、26歳になった梅樹氏に転機が訪れます。The road to mosaicのはじまりです!
4年前の昭和4年(1929)、「東洋一の劇場を作る」というコンセプトのもと、東京有楽町に「日本劇場」が着工します。日劇の愛称で親しまれることになるのですが、幸先はあまり良いものではありませんでした。
世界恐慌の煽りを受け、資金繰りが悪化、スポンサー撤退で工事が中断。3年ほど巨大な廃墟になっていたようです。
昭和8年(1933)、渋沢栄一氏の甥で実業家の大川平三郎氏が資金を提供し、ようやく工事が再開しました。
ここで梅樹氏に白羽の矢が立ちます。 任されたのは、日劇の「顔」とも言える1階エントランスホールの巨大モザイク壁画 。
驚くべきことに、これが彼のデビュー作であり、同時にその名を不動のものにする出世作となりました 。
いかに巨匠・板谷波山の息子とはいえ、モザイク制作の実績がない若者が指名されることは、異例中の異例ではないでしょうか。まさに、破格の大抜擢と言ってよいでしょう!
原画を手掛けたのは、洋画家の川島理一郎氏です。ギリシャ神話の女神たちをモチーフに、「平和」「戦争」「舞踊」「音楽」という4つのテーマが描かれました。
ヨーロッパでモザイクを見聞した川島氏の指導のもと、梅樹氏は高さ約3m・幅約2.1mもの巨大なモザイク壁画を4枚制作。
さらにドアの上部にも3枚が設置され、計7枚の大作がエントランスを飾ることになったのです。
ここで注目したいのは、素材の選び方です。使用されたのは、ほとんどが廃材でした。
のちに、今井兼次氏が作る「フェニックス・モザイク」にも通じるような、再利用素材によるモザイクの先駆けです。
梅樹氏は当時
「今回のモザイク壁画は、子どものいたずらが基礎になって出来上がったものだ」
という趣旨の言葉を残しています。
幼少期の「陶片遊び」が、そのまま巨大な公共壁画へとスケールアップした、とも言えますね。
「モザイク」という言葉の語源をご存知でしょうか? 実は、ギリシャ神話の芸術の女神「ミューズ(Muse)」に由来し、「女神に捧げる芸術」という意味を持っています。(ちなみに「ミュージアム」「ミュージック」も同じ語源です)。
日劇の1階のエントランスホールを飾った梅樹氏のモザイク壁画。それはまさに、昭和のエンターテインメントの殿堂に捧げられた、女神たちの芸術だったのかもしれません。
劇場の来場者を迎えるエントランスが、光と色とモザイクで満たされていた光景を想像すると、当時の人々が受けたインパクトの大きさが、少し身近に感じられます。
隠され、忘れられ、そして消えた。悲劇の壁画がたどった数奇な運命

竣工当時の日劇
しかし……。
芸術の女神ミューズさんは、どうしてこのような試練をお与えになるのでしょうか。
太平洋戦争末期(1944年~1945年)に、日劇は「風船爆弾」を作る軍需工場になっていましたが、建物自体は空襲にも耐え抜き、戦後には営業を再開。
そして13年がたった昭和33年(1958)、なんと梅樹氏のモザイク壁画は、化粧ベニアで隠されてしまいます。
理由は、劇場がより大衆的な興行へと移行し、タイアップ商品をホールで販売するため、背景として、この壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというもの。
宗教的な理由で、モザイク壁画が隠されてしまった、イスタンブールのアヤソフィアを思わせます。

既存のモザイク壁画は隠さないでほしい
この話を初めて知った時、真っ先に日劇ミュージックホールだなと思いました。トップレスの女性ダンサーによるレビューショーで、当時の昭和を代表する裸体舞踊の施設ですね。
でも、ここは5階だし、1階のエントランスホールのモザイクが関係あるのかな?と、疑問に思っていました。しかも6年前に興業を開始してますからね〜。
いやいや、昭和33年(1958)にはじまった、日本のエンタメの祭典がありました。日劇ウエスタンカーニバルです!
団塊のみなさんが熱狂した、ロカビリーとグループサウンズのライブです。
1階から3階まで客席があり、1階のエントランスホールで物販もしたことでしょう。
そうですか……。梅樹氏のモザイクはそぐわなかったですか……。
そして、梅樹氏のモザイク壁画は、ベニヤの裏に隠されたまま、昭和56年(1981)に日劇が老朽化により解体されるまで、23年間、誰にも見られることなく、忘れ去られたままの状態でした。
解体時はビックリしたことでしょう。ベニアをはぐったら、それはそれはギリシャ神話の壮大なモザイク壁画の登場です。
23年ぶりに発見されたことから新聞などで話題となりました。また保存を求める声も上がり、経営母体の東宝は保存の検討を始めたそうです。

えー、今になってですか?
ですが、当時の東宝関係者には敬意を表します。なかなかむずかしい躯体の部分に施工されたモザイク壁画を、1ヶ月かけて救出させたのです!
ドア上部の3枚のモザイク壁画は、板谷家のご家族に寄贈されましたが、問題は大壁4枚のモザイク壁画の行方です。
現在、日劇の跡地に建つのは、昭和59年(1984)に開業した有楽町マリオンです。 実は当時、発見された4枚のモザイク壁画を、この新ビルの記念モニュメントとして移設する計画がありました。
しかし、様々な事情があったのでしょう。残念ながらその計画が実現することはありませんでした。
東宝関係者は、モザイク壁画を世田谷区砧にある東宝スタジオの倉庫に保管を決定。
ここで、いつか、日の目を見る時を待ちながら、静かに眠りにつきました。
しかしその間、なんと20年!
倉庫の中ですから、当然、一般人は目に触れることが出来なかったと思います。
不思議なのは、その存在が美術・建築分野など関係業界の中でも、完全に「空白」になっていたことです。
解体時には「23年ぶりの発見」と話題になったのですから、専門家による調査や記録が残っていてもおかしくありません。これは知らなかったのか、知らされなかったのか。
色々とディープリサーチをしても写真、詳細な資料や報告書の類は発見出来ませんでした。
唯一、筑波大学芸術学系美術史研究室が発行している研究誌『藝叢』(げいそう)第33号(平成29年・2017発行)に掲載された、星野睦子氏による研究論文『旧日本劇場とモザイク壁画(1933年) : 工芸家・板谷梅樹の再評価に向けて』というものがあります。
大壁4枚のモザイク壁画はすでに存在していないので、ご家族がお持ちの残されたモザイクを丹念に調べ、関係者へのインタビュー、当時の資料からも考察された、とても深い研究論文になっています。
私も今回、このブログを書くにあたり、大変参考にさせて頂きました。ありがとうございます。
さて、倉庫に保管されて20年後、東宝スタジオは大規模な改築工事を行うことになりました。 倉庫も整理が行われ、保管されていた梅樹氏のモザイク壁画も「処遇」を迫られます。
東宝関係者は貴重な作品を残そうと、いくつかの美術館に寄贈や移設を打診したと言われています。
しかし、モザイク壁画は厚み50㎝、重量が数トンにも及ぶコンクリートの塊です。保存状態の問題などから、引き取り手がなかなか見つかりませんでした。
ついに行き場を失ったモザイク壁画は、スタジオの改築工事に伴い、最終的にすべて廃棄処分(破棄)されてしまいました。 とても残念ですが、東宝関係者も苦渋の選択だったと拝察いたします。
梅樹氏が情熱を注ぎ、日劇の顔として愛され、一度は解体の危機を乗り越えた4枚のモザイク壁画は、現在この世にひとかけらも残っていないのです。
ここで、そのモザイク壁画の画像をお見せしたいところですが、探してもフリー素材はなく、板谷梅樹展の図録に掲載されたモザイクを写真に撮ってアップすると、著作権侵害で怒られて罰金刑ですので(汗)、板谷家のご家族の方が投稿されておりますInstagramをシェアさせていただきます。
検証:板谷梅樹こそが「日本初のモザイク壁画」作家ではないか
ちょっと熱く語ってしまいましたが、冒頭でもすこし書きました様に、私はこの梅樹氏の日劇モザイク壁画こそが、日本で最初期の本格的モザイク壁画であり、事実上「日本初のモザイク壁画」と言ってよいのではないかと感じています。
もちろん、日本のモザイク史を振り返りますと、日劇以前にもモザイクは存在します。でもそのモザイクは「床」なのですね。
- 明治29年
(1896)旧岩崎久彌邸玄関床 大理石
ジョサイア・コンドル - 明治41年
(1908)東京国立博物館表慶館エントランスホール床 タイル
片山東熊
中丸精十郎 - 明治42年
(1909)迎賓館赤坂離宮小ホール床 大理石
片山東熊
ジャン・ドメニコ・ファッキーナ

タイルは幕末以降、壁にも床にも施工されてきました
実は厳密に追求すると、日劇より2年前の昭和6年(1931)に施工されたモザイクがあります。
東京日本橋に建つ「近三ビルヂング(森五商店ビル)」の1階エントランスホールに、ドイツのビロレイ&ボッホ社から輸入されたガラスモザイク(ズマルト)が45㎡の広きに渡り、「天井」に張られています。
デザインは奥村新太郎氏。オーナーは呉服卸商ということもあり、モザイクは着物を思わせる、とてもカラフルで見事な色合いです。
こちらの建物は、建築家・村野藤吾氏が渡辺節建築事務所から独立後、最初に手がけた作品として知られ、日本の建築史にその名を刻む存在です。
こちらも現存するモザイクとしてリストアップすべきでは?
ですが、施工者が不明(ドイツのメーカー説あり)で、材料も輸入品、そして1965年(昭和40年)には国産のガラスモザイクが追加施工されています。
そのような関係で、日本最古のモザイク「壁画」からは除外させて頂きます。
と言うことで、日本人の日本人による日本人のための現存する「壁」のモザイクはどうかと言うと、ご存じ、ビヤホールライオン銀座七丁目店のガラスモザイク壁画が最古と言われております。

昭和9年(1934)、日本人だけで制作された、本格的なガラスモザイク壁画が登場します。
建築家・菅原栄蔵氏の原画をもとに、ガラス工芸家・大塚喜蔵氏、モザイク研究者・櫻井一忠氏が制作した大壁画は、「ガラスモザイクとして本邦初」。
ガラスモザイクも輸入ではなく、全て国産です。さらに釉薬の魔術師でタイル業界にも功績を残した小森忍氏の重厚なタイルも圧巻です。
こちらはモザイク関係者の「聖地」にもなっていて、私も年に数回は美味しいビールを飲みにいっております。
さて、もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
梅樹氏の日劇モザイク壁画の完成は昭和8年(1933)。ビヤホールライオン銀座七丁目店より1年早かった!
特記すべきは、材料がほとんど焼き物(陶器)ということと、廃材を使っていたという点にご注目。まさに日本的ではありませんか!
もし日劇モザイク壁画が現存していたら、日本最古のモザイク「壁画」であり、モザイク関係者にとっても「聖地」となっていたことでしょう。
また、貴重な歴史的資料となっていたに違いありません。
さ、気を取り直して先に進みましょう。
昭和8年(1933)に日劇のモザイクを完成させて一躍有名になった梅樹氏。同年、日劇で川島理一郎氏が描いた原画「舞踏」をモチーフにしてモザイク壁画を制作。
タペストリーモザイクと称されたその作品は、第14回帝展に出品されて入選。高い評価を受けました。
作品は梅樹氏の支援者の個人蔵とのことですが、今回の板谷梅樹展での展示がないことから現存するかは不明です。
※第14回帝展は、日劇がオープンする12月より前の10月21日 ~ 11月5日に開催されていることから、実際に日劇に設置されたモザイク「舞踏」が出品されたとの記述もあります。
(前述・研究誌『藝叢』(げいそう)第33号)
戦火を越えて:暮らしを彩る「小さなモザイク」への転換
昭和10年代に入ると、世の中は次第に戦争の時代へと傾いていきます。
満州事変、国連脱退、日中戦争、三国同盟など、戦争を知らない我々でも授業で習った出来事が続きます。そして昭和16年には真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入。
大型の装飾壁画やインテリアは「ぜいたく品」とされ、公共空間での大きなモザイク制作の機会が途絶えていたことは想像に難くありません。
以降、梅樹氏の作品も壁画ではなく、小さな工芸品の分野に移っていきます。
昭和10年(1935)、梅樹氏28歳の時に、波山氏が顧問を務める工芸団体「東陶会」に所属。
以後、戦前から戦中にかけて毎年の様に、東陶会展や帝展などにモザイク作品を出品しています。
この頃の作品は、飾箱、莨箱(タバコ入れ)、灰皿などですが、モザイク画も何点か制作しています。


飾箱は、かなり細かいモザイクです。
波山氏が割った陶片の釉薬部分を薄く剥ぎ取り、カタチを整え、張り付ける。
「陶片モザイク」という新しい表現を切りひらいた梅樹氏の息遣いを、肌で感じるような思いがします。




波山氏と相談して作ったという「うさぎ」、「鳥」、「魚」のモザイク画が可愛いです。波山氏が焼き物に好んで使った題材だとか。


またランプシェードもステンドグラスで制作。台座には波山氏が作った辰砂釉の焼き物が使われています。親子共同制作ですね。

戦争末期には、家族で茨城県大洗に疎開。その後、しばらく水戸で暮らしています。
東京から帰って来る人たちに、日劇の安否を尋ねていたとのことで、モザイク壁画を心配していたエピソードも。
いよいよ終戦を迎えた日本。国民は日々生きるのが精一杯。
美術品、工芸品は生活に必要ないカテゴリーの奥底に追いやられております。
それでも、梅樹氏は「陶片モザイク」の工芸品を作り続けます。飾箱などは毎年の様に茨城工芸展や日展などに出品しています。
また戦後、新たに作り始めたのはネックレス、ペンダント、ブローチ、帯留、カフスボタンなど、身につけて持ち歩ける、小さなモザイクアクセサリーです。
これらの装身具は貧しい生活の糧として、銀座和光などで販売し、その収入で梅樹家は細々と暮らしていたといいます。

近年はタイル、ガラスなどで作ったアクセサリーがDIYで作られたり、販売されたりしておりますが、元祖は80年前に既に作っていた梅樹氏なのですね。
生活のために作っていたとは言え、当時はかなり斬新なアイディアだったと思います。


さらに、梅樹氏にモザイク制作の依頼が来ました!
発注したその人物とは、出光佐三氏。出光興産の創業者その人です。波山氏の作品に感動し、コレクションや支援を通じて板谷家とは親しかったとか。
注文品は飾皿でした。この飾皿は出光興産の退職者に、贈答品として配られたそうですから、かなりの数だったと思います。
今回の板谷梅樹展でも、14枚ほど展示されていました。全て個人蔵ですから、今回の展示会はとても貴重だったと改めて感じました。


余談ですが、出光佐三氏と言えば「海賊とよばれた男」を思い出します。戦後の出光興産は激動の時代。それでも芸術に造詣が深い出光佐三氏は、芸術家には十分な支援を提供し、継続的に作品を購入することで制作活動を後押ししていたそうです。
その軌跡を私たちは今、出光美術館で見ることが出来ます。(只今、国際ビルヂング建て替えのため休館中・2025年11月現在)
偉大な父の影と、息子が貫いた「光」の道
昭和29年(1954)、梅樹氏47歳。疎開先の水戸から東京田端に戻りました。
この年、現存する最大のモザイク作品「三井用水取入所風景」を制作しております。
それは横浜市からの依頼でした。ちなみに当時の横浜市長は、波山氏の支援者だったようです。
高さ3.655m、横1.345mのこの大作は、相模川と道志川が合流する津久井湖畔に建つレンガ造の三井用水取入所と、その背景にそびえる富士山を主題に描かれています。

同年、第10回日展に出品されたのち、横浜市水道局に納められ、昭和62年(1987)に近代水道100周年を記念して開館した横浜水道記念館の1階ロビーに展示されました。
令和3年(2021)、同館が閉館するまでの34年の間、横浜市民に親しまれていたのですね。
現在、作品は横浜市から板谷波山記念館に寄贈され、同館の所蔵になっております。
※常設展示はされておりません。ぜひ常設展示を希望致します。
その後も梅樹氏は生涯にわたり毎年、日展にモザイク作品を出品し、審査員や評議員も歴任しております。



偉大な父とは異なる「モザイク」という表現で、確かな光を紡ぎ続けた梅樹氏。その情熱は、最期の瞬間まで途切れることはありませんでした。
しかし、その運命の時計はあまりにも早く止まってしまいました。
モザイク作家として独自の境地を切り拓き、その作風がさらに円熟味を増そうとしていた矢先だったと思います。
昭和38年(1963年)、梅樹氏は56歳の若さで静かにその生涯を閉じました。
そのわずか5か月後、波山氏も91歳で旅立たれます。
図録の中で、ご子息の板谷駿一氏は、梅樹氏が大の酒好きであったこと、そして偉大な波山氏の存在が生涯にわたり重くのしかかっていたことを率直に記しています。
偉大な父の影。その重圧は、我々の想像を絶するものだったに違いありません。しかし、梅樹氏が遺したモザイク、特に父が割り捨てた陶片を繋ぎ合わせて生まれた作品には、暗い影ではなく、どこまでも澄んだ「光」が宿っています。
父が「無用」としたカケラに、息子が新たな「命」を吹き込む。その静かな手仕事こそが、言葉を超えた父への対話であり、梅樹氏なりの誇り高き回答だったのかもしれません。
いま、板谷梅樹氏から学べること

タイルやモザイクのファンの方、あるいは実際にモザイク制作をされている方にとって、梅樹氏から学べるポイントは数え切れません。
破片から始まるポジティブな創造
砕かれた陶片を「失敗作の残骸」として捨てるのではなく、「新しいモザイクを描くための色のカケラ」として見直した視点。
これは、素材に対する愛情と、発想の転換そのものです。割れてしまったタイルや、半端なピースをどう生かすか。モザイクを楽しむすべての人に通じるヒントがあります。
ステンドグラス的な色面構成
ステンドグラスで培った「色のピースを面として扱う感覚」は、梅樹作品の大きな特徴です。
陶片の色をグラデーションとして並べる、アウトラインを生かして輪郭線を描くなど、光を意識した色面設計は、現代のモザイク制作にも大いに参考になるのではないでしょうか。
壁画と工芸品の両立
日劇や「三井用水取入所風景」のような大きなモザイク壁画と、飾箱、飾皿、アクセサリーといった手のひらサイズの作品は、スケールは違っても、そこに流れる色彩感覚と構成力は共通しています。
「壁画は無理でも、小さなアクセサリーなら」と考えている方にとって、モザイクのスケールダウンの好例として、とても参考になるはずです。
最後に:「日本で初めてモザイク壁画を作った人」として

あらためて振り返ると、板谷梅樹氏は
まさにモザイクアートのパイオニアでした。
日本で初めて本格的なモザイク壁画を作った人。
そう位置づけてみると、これまであまりに知られてこなかったことの方が、不思議に感じられるかもしれません。
タイルやモザイク好きの方はもちろん、昭和モダン、昭和レトロな建築装飾やデザインに惹かれる方も、ぜひ「板谷梅樹」という名前を心にとめていただければと思います。
そして、いつの日か板谷波山記念館で梅樹氏の作品が公開され、あるいはまた大々的に「板谷梅樹展」が開催される機会に恵まれましたら、ぜひ実物のモザイクとじっくり向き合ってみてください。
ひとつひとつの陶片には、100年近い時を経てなお消えることのない「色と光の記憶」が、いまの私たちに静かに語りかけてくれるはずです。

参考文献
特別展「昭和モダーン、モザイクのいろどり 板谷梅樹の世界」図録
『藝叢』(げいそう)第33号(平成29年・2017発行)筑波大学芸術学系美術史研究室
『旧日本劇場とモザイク壁画(1933年) : 工芸家・板谷梅樹の再評価に向けて』星野睦子
板谷波山記念館、泉屋博古館東京、INAXライブミュージアムほか関係サイト
掲載の板谷梅樹作品画像は、INAXライブミュージアム様に撮影・掲載の許可を頂いております。

